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乾杯の歌

杯をもて、乾杯、乾杯、勝利と歓喜の祝杯を上げよう!

真に価値ある人々に、栄光あれ。

すばらしき未来を担う、本物の「ひと」に育っている小さき人々の旅立ちに、祝杯を上げよう。

心躍らせるすばらしき人々との出会いとその嬉しいつながりの発展に、祝杯を上げよう!

新たな世界が、これから眼前に開ける。守るべきを守り、変えるべきを変える。やわらかいこころで、足し、広げ、深め、変え、真に良いものを生む。行動する真の賢者のみが祝杯の献呈に値する。

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遅すぎる英断

心ある者たちよ、ささやかに祝杯を上げようではないか。

クライアントのところにいる「使えない」最たる者がいよいよ、その非を、負けを認めたのだ! 別の口実をもうけてはいるが真相ではない。最後くらいは面目を保たせて差し上げよう、クライアントの何もしらない多くの諸君よ。

もう1年以上も職務怠慢と税金泥棒、そして幼稚なハラスメントを繰り返してきた、そんな者は、退くのは当然なのだ。弱い者、レッテルがないからと軽んじている者たちが、泣き寝入りする時代は終わった。正々堂々、訴えるべきは訴える。

もっともそもそもは、心ある誠実な者の箴言を理解できず真の受益とはなにかがわかっていないリーダーの資質、そして、ご同類の悪しき慣例慣習の論理をふりかざす、口だけで無責任な、有能きどりのお仲間類が、そもそもの災いのもとであったのだ。なんということはない、遅すぎる”ご英断”劇、なのである。

ばからしいことである。金と、有能な者、誠実な者のやる気をどれだけ浪費し害してきたことか。

体の中心から腐っているクライアントよ、いい加減に目を覚ます時だろう。心あるものたちは快哉を叫ぶ。

心ある人々の快哉が聞こえる。

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意匠替え

タイトルをこのたび、めでたく変更にした。

枷を断ち、自らに適する開けた景観の世界へ、もっとわくわくする素敵な世界へ、等身大の自分にふさわししい世界で、自らを偽らずに語るために。

「理想を語る」「名ばかり」の世界よ、さようなら!私は自らの足で荒れ野も心躍る穏やかな野原も、口の糊する田畑を歩きながら、真にもてなしの心を有し、真の知恵を有する人々の間で精神を養い、羽のような心の軽さとずっしりとした重心を感じる世界へ、見かけだけの看板は捨てて戻るのである。

ああ、なんと心地よいことだろう。偽りのない意匠は。

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新入社員はなぜ期待はずれか

という本を読んだ。

夢ばかり語って、足もとをおろそかにしている新入社員は、期待はずれの最たるもので、絶対に採ってはいけない部類だ。つまり、日々の仕事をきちんとこなすことによってこそ、ビジョンが現実になるということをわかっていない。

しかし、人を見る目がない採用者がそもそもの始まり、なのである。

溜飲を下げる話だ。同感、同感、大同感!

人が去り、また来る季節。新入りはなぜ期待はずれか。よく考えてみるがいい。

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産みの苦しみ

わかりにくい、整理されてない、ぐっとこない。

ずっと抱えていたフラストレーションに対峙中。違うカテゴリーと階層の概念と物がごちゃまぜ。それを無理矢理、なにがなんでも前提を変えずにそのまま進めようとするから、歪みっぱなしで整理できるわけがない。やる気がないのと同罪だ。臭い物が強烈に幅を効かせ、嗅覚麻痺状態。

この際、ばっさりシャッフルしてやろう。どうやるか。産みの苦しみだ。

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昇竜

木蓮から清廉な白い花をいっぱいにさかせている。

ハクモクレンは、その形も美しい。

この花からは、竜が天に昇るらしい。雷とともに。

睡蓮の花が音を立てて開くのとおなじくらい、一度目撃してみたい。

春の嵐、雷雨が、すがすがしく新しい季節を予感させる。

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とどのつまりは

あなたの職場で、何をやっているのかわからないが給料だけはいいらしい、という人がいたら、どんな気持ちがするだろうか?

やってることを説明してもらいたくはないだろうか?それも、きちんとこちらが納得できるように。

普段から、席を外すことが多いが、いったいどこで何をやっているのかわからないような人がいたら、どう思うだろうか? 行き先は言っても、何の目的で、実際に何をやってきたのか、全然言わないでいたら、不審に思わないだろうか?

とどのつまりはそういうこと。会社から給料をもらっている時間に趣味をやっていたら背任である。税金で給料もらって身内だけがわかるという趣味をやっていたら、やはり同じだろう。趣味ではないことを納得してもらえる振る舞い方というものがある。

甘えと幼稚さがまかり通ってしまう未成熟社会。「株主」が何に投資したいかをもっと直接反映させるようになっていかなければ、いつまでたっても誰も磨かれず、成熟に至るはずがない。

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出社に及ばず

昔から口が達者で弁はものすごくたつが、どう行動してどうなったのかがわからない人がいた。とうとう「出社に及ばず」となったという。

「うちには評論家はいらん」 そのとおり。

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年齢にふさわしく

ある若年者支援団体の責任者が漏らす。「20代後半の、年齢だけはとっている人たちを雇って教育することには本当に苦労する」

同感、それ以上の思いがする。さらに上の年齢であっても「学ばない」者の例は枚挙にいとまがない。

年齢にふさわしい振る舞い方というものはやはりあってよかろう。年齢未満の振る舞いはどの年代でもまずいだろう。常に自省が欠かせない。足りないものは補え。だがこどもは、人品の卑しい大人のまねはしなくてよい。低きに流れないように。

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もちたい関係性

別れと出会いの季節。

澱みに暫し入り込みはするが、今日も浮き草は流れゆく。

惹かれるは我が精神を養う関係性である。

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資格者の不安

ある資格者の集まりに出て、資格者の不安の遍在を見た。

博士、弁護士にはじまって、およそ資格と名のつくものが溢れかえっているからなんだろう。

資格とは縁のない自身は自転車操業の身。ペダルをこぎ続けるしかない。ひょっとしたら乞食にならなければならないかもしれない。荒れ野に踏み出したのだから、腹をくくって進むしかないだろう。見渡す限り茨の原野なのだから、退路はない。不遇をかこつ憂鬱にかまけている暇はない。

資格にこだわっているような人は「採ってはいけない」人の第一候補と見られることを、肝に銘じるべきだろう。

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こどもたちの旅立ち

あのすばらしい子どもたちが、巣立った。

ひとりひとり、本物の輝きをもって、しっかりとした羽ばたきを披露してくれた。

わが地域の誇る、誰もが一目置くこどもたち。大人の鏡になるような、すばらしいこどもたち。

学びを過去から現在へ、現在から未来へとつなげてきたこどもたちの力量はそれは見事なもの。自分の未来を自分で切り拓いていける。今時のそのへんの大人など、とうに凌駕している。

彼らに祝福を!

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一番に誰が教育されるべき?

話題に上ることが多かった某大学で倫理教育に関して次のような声明が出されている。

倫理教育に関しては、学生に対して「市民としてどのように、科学技術社会と向き合うことが求められるのか」 について事例を紹介しながら、分かりやすく説明し、 考える機会を与えることを目的に教養原論としての「科学技術倫理」のような授業科目の新設を検討している」

お笑いぐさである。自分のことは棚上げの倫理なき教員に、そんな教育なんかできるわけがない。学生云々の前に、徹底的に教育しなければならないのは教員のほうである。言い逃れを押し通そうとする教員は、処分になった者だけではない。

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群れと個の境界

群れのなかにいることと、個を貫くことの調和は難しいという言葉をきいた。

伝統的通念のなかで”常識”といわれるやりかたから外れる者は、”干される”というのだ。

だが、奇妙なのは、個を貫こうという者がまた新たな群れをつくり、作家梨木香歩のいうような”痙攣”をおこす方向へと進むことだ。

そして日本はどこにいっても”群れ””ムラ”から脱却できない人で溢れている、らしい。どうも。

私見をいうなら、誰も彼もペルソナ、レッテルでものをみるから、いつまで経っても自立できない。バックにある組織の名前で自分を語ろうとするからだめなのだ。組織の名前がなくて、「わたしは、これこれの人間だ」といえる者が何人いるのだろう? 

作家はそういえる。なぜなら、作家は組織ではない。何をしているかを表しているからだ。私もいえる。なぜならわたしは、どこにも所属しない者で、そのときに自分がなにをしているかで自分を語ってきたからだ。仮の宿があることもある。しかし、根本的に、私は宿に属していない。

組織の名前で自分を語ろうという者は、要するに、中身に自信がないのだ。貧弱な体をさらけ出してしまうようで頼りないのだろう。独りでは心細いのだろう。

個ばかりでも存在を維持できない。ゆるやかにどこかでなにかを介してつながり、世界全体として良い流れになっている。そんな、”群れ”と厳然たる隔離された”個”の融合する境界あたりにいられれば、世界は閉塞しないですむだろう。

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他人のモカシン

某大学の某教授の話をきいていてつくづく感じた。この人たちは、なんにもご存じなく、視野が狭いのだ。

他人のモカシンはなかなか履けるものではない。大学教員のお気楽さ、口だけの大学教員に満ちあふれる大学にあほほど税金をつぎ込み、本当に大事な仕事を知恵を絞ってしている民には資金を投下しない政府の「エリート」には呆れるばかりだ。

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毒を吹き込むまたは不幸の媒介者

毒のある人、というのではない。

さも人のためを思っているようでいて、実は、幸せな人に密かに毒を吹き込むことを謀っている人がいる。残念ながら、不幸を誘い込んでしまう人のようで、知らず知らずに人を羨みやっかみ、毒を吹き込みたくなるのだろう。

くわばら、くわばら。不幸な身の上ははなはだ気の毒ではあるが、毒を吹きかけられる前に退散!と決め込むことにしよう。

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フランス流親子関係をよくする方法

フランスのTVドラマを親子で気に入っている。出てくる子どもが、ちょうど同じくらいの「ちょっぴり難しいお年頃」なので、親子や兄弟姉妹や友達どうしのやりとりがとても興味深い。

観ていて強く感じるのは、フランス人のこどもの育て方のゆとりといおうか、寛容さといおうか、受容性がある、というおうか、そういう精神性?哲学?みたいなものである。少なくともこのドラマのなかでは、こどもの成長のひとつひとつの場面を、親は肯定的に捉えて子どもに寄り添う。

当たり前のことのようだが、これは結構難しいことなのだ。

TVドラマだから、理想の親子像が描かれているのかもしれない。だが、いい親子関係のお手本だ。べたべたせず、しかし親が子どもをしっかり受け止めて、庇護し手助けしている。こどもは成長するものだ。親のいいなりになる所有物でも愛玩物でもない。子どもを尊重するとはどういうことががよくわかる。一緒に観ていると、親子関係が良くなるドラマだ。

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弱い犬ほどよく吠える

能力のないものほど口が達者。それも、へらず口、愚痴、否定、文句の類。

意気地がない者は、自分が知っている範囲ではごそごそ動き回りこそすれ、知らない世界には一歩も踏み出せない。しっぽを股の間に挟んでそれはびくびく、みっともなく哀れな限りだ。

人望なく、自信のない者ほど、セクショナリズムを楯に傘にして、親切めかした”助言”で、足を引っ張る。親切めかして実は足を引っ張ろうとしているだけであることの判断は、「認める」反応が欠けていることですぐにつく。これは、「人に自分を越えてほしくない」「自分のほうが上だ」という極めて低劣な性分に基づいている。

きちんと人を見もせずに、年が若いというだけで、さも自分が何もかもよく知っているかのごとく偉ぶったり、肩書きをひけらかしたりする。

弱い犬ほどよく吠える。

高いレベルで物事を考え行動できる者は謙虚であり、最大限の善をなそうとする。人を励まし、一緒に考え、陰になり日向になり行動する。

これができない小物が幅を効かせすぎているのである。

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誰もがマリーアントワネット

仕事帰りに通りすがる駅のカフェに、それはそれは甘い菓子パンがいろいろ,

ずらりと並べてある。

「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」 フランスではマリーアントワネットが、庶民とはおよそかけ離れた感覚でこういった。

愚かなマリ-アントワネットが今の日本には溢れかえってしまったように思う

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You did it again and again!

「またやってくれた、この学年は」 と、またも教頭先生がおっしゃったという。

こどもの学年が、エコ活動で市長賞をとったという。つい先日の参観授業でかいまみた内容で。かれらだからこそ、という体験が何度あったろう?

先生方、ありがとう。こどもたちや親たちにまで感謝してくれている先生方があってこそ、今のこの学年、今のこの学校がある。

なんて素敵な、子どもの学校。ほかの学校も、そうなれる。だってここは、誰に選抜されてもいない、ふつうの小学校なのだから。

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贅沢

ある公的研究所の一般公開案内が届いて、家人とともに呆れかえった。

まち付き厚手封筒に綺麗なちらしが3枚。

このご時勢に誠に結構なことである。予算があり余っているらしい。あるいは、こういう結構なところですから是非見に来て、がんばってここで働ける人になって、というラブコールか。

ノーベル賞とも関係が深く自信もあり、観てほしい一心なのだろう。それはわかる。ただ、今のこの世情を考えるとあまりにも現実離れしすぎてはいないか。科学技術の未来へのバックアップは、科学技術以外のところから始まる。

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マトリョーシカの行列または崖っぷちにたつペンギン

お祝いの日なので、ショートケーキを豪華にしようと、苺を求めて、飾り立てた。

ホールのケーキに半分にした苺をドミノ倒しの駒のようにずらりと並べる。

名付けて「マトリョーシカの行列」

カットしたケーキに、半分、四半分にカットした苺を載せてみる。

名付けて「崖っぷちに佇むペンギンの親子」

楽しい祝いの食卓だ。

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科学技術離れの源

小学生が会社をつくり製品開発をするシミュレーション授業を見た。「誰のために?何を創るのか?もうけはどのくらい出そうか?信頼はどのくらい得られそうか?どう社会貢献していくのか?」方向性を一生懸命に議論している。

このようなバランスの良い教育を受けているこどもたちにとって、今の科学技術の世界は果たして魅力的なものか?悲惨な現状をかいま見ている身として、ふと疑問が湧いた

ノーベル賞の連続大量受賞で、傍目には、「科学技術は人類のためになる」ように見えるだろうか。「今やっている自分の好きなことをとことんやっていけば社会に貢献する」ように見えるだろうか。

そう信じて憧れてその世界に入ったところで、理想と乖離した実態を見れば、そこに残りたいという人がいなくなる、というのが現実ではないだろうか。

そんなところに魅力を感じない若い人が多いというのが現実ではないのか。単に成果だけ結果だけ数字だけを評価している当然の結果だろう。これはどの世界でもいえることなのだが、どうも科学技術の人たちは、自分たちは偉くて例外だと思っている節がある。

極端に論理性を崇拝すれば人間が偏る。もともと人よりモノやデータ重視の性向のある人間たちだから、力を入れるべきは理数教育(これがなければ話にもならないが)より、むしろ人間力のほうだ。理数に特化ではますますバイアスが大きくなる。発想を逆にすべきだろう。

得意な領域では、より高い課題を与えれば放っておいても喜んでチャレンジするものだ。その前に圧倒的に発達させなければならないものは、人間力だ。人間の基本、これが圧倒的に欠けている。人間としてより豊かな子どもたちは、そんな大人たちの世界に魅力を感じようはずがない。人間力を磨かないひずんだ大人たちのつけが回ってきているということだ。しかし人間力がない大人たちにはそのことが理解できない。理解できない人は人間力がない。このことは、話を持ちかけてみればすぐにわかるので試してみるといい。

科学技術離れの源は、人である。こどもたちは今の「偉い人」たちよりよっぼど賢く敏いのである。

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成長

また一段、成長したひとが、側にいる。

このひとたちは、貴重な時をそれぞれに精一杯過ごしてきた。そしてさらに前へ前へと進んでいく。

光を感じさせ、未来への希望を抱かせるそのひとたちは、子どもたちである。

どこからきた人たちにも、間違いなく、嬉しい驚きを与え続けてきた、子どもたちである。

着実に努力し行動につなげることで、人と高め合うことで、感動を与えてきた、子どもたちである。

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ブレイクポイント

がちがちの二分法に縛られるのは主義ではないが、最近、ある年代層の人と話をしていて感じることがある。

なにごとも途中で放り出す人と、身を置く世界は変わっても目に見えない一貫性を持って最後までやり遂げる人。

途中で放り出す人は、当たり前だがいまだに不安定だ。最後までやり遂げる人は足下がしっかりしている。

近いところに、不安定な人がいる。物事を放り出そうとすることたびたびだ。それに気づけば道も開けるだろうに。自分で首を絞めるのは仕方ないが、他人にわけもなく不快な思いをさせてはまずかろう。

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慰め

まっすぐなエネルギーに出会った。

まっすぐに人を見ることができる誠意ある視線をもつ人は気持ちがいい。

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理由

クライアントの意気が全体としてさっぱり上がらない理由が証言とともにはっきりした。

やはり、自分可愛さのスタンドプレイが横行しているからだった。

スタンドプレイは、フィーチャーされるパートを他のパートが盛り立てようとしてこそ輝くもの。曲全体を考えずに、自分勝手に立ち上がり目立とうとしても誰が合わそうとするだろう。

その病理は、深い。

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真贋鑑定

掛け値なしの真贋を見抜く心眼をもとう。能力のない者ほど、見かけ倒しで、大変だ、忙しい、と大騒ぎするものだ。行動の裏付けが伴わない言葉と言い訳にだまされないことだ。

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